須磨寺の境内へと続く参道の桜も満開を迎え、
これからは、桜の絨毯も楽しみですね。
須磨周辺の桜は別名「敦盛桜」と呼ばれています。
須磨の桜の名所を巡る「敦盛桜まつり」
この時期になると、山陽電車さんが「敦盛桜まつり」という名のイベントを開催します。
今年、2022年は、須磨寺のお隣、須磨浦公園をはじめ、
兵庫の桜の名所8カ所が会場になったスタンプラリーです。
スタンプラリーの参加方法はとても簡単です。
山陽電車の駅などに設置しているチラシかポスターについているURLをスマホで読み込むだけ。
スマホに表示されたスタンプページを開き、スタンプポイントに近づくとスタンプをGETできる仕組みになっています。
ぜひ駅でチラシをGETして参加してみてくださいね。
須磨寺近辺では、参道にある「弘天さん」、須磨寺境内の三重塔、須磨寺公園にスタンプが設置されています。
須磨寺と敦盛桜のお話
「敦盛桜」の由来は、須磨寺ともゆかりの深い平敦盛(たいらのあつもり)公から来ています。
敦盛公は平清盛の甥で「平家物語」に悲劇の美少年として描かれる人気の登場人物。
須磨寺は現在、敦盛公の菩提寺としても広く知られています。
須磨寺と敦盛公の関係と須磨の桜が敦盛桜と呼ばれるようになったエピソードをご紹介します。
源平合戦のクライマックス「一の谷の戦(たたかい)」
源平合戦とは鎌倉時代、後白河天皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)の命を受けた源義経が命を受け、平氏を打ち滅ぼした一連の合戦のことをいいます。中でも一の谷の戦は、源氏が平家を滅亡に追い込んだ有名な戦なのでご存知の方も多いのではないでしょうか。
一の谷は現在の須磨区のことで、海と山に囲まれた独特の地形を生かした戦術は「鵯越(ひよどりごえ)の坂落し」として知られています。
須磨寺は一の谷の戦の際、義経の陣として使われていました。
多くの人が涙した「敦盛公の最期」
一の谷の戦で最も有名なエピソードが、敦盛公が亡くなる最期の場面。中学の国語の教科書にも載っていた「平家物語」の1場面で、ご記憶の方も多いかもしれませんね。
この場面と一枝の桜をモチーフにした歌舞伎の演目「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」は今でも人気のお話で、須磨寺には物語に登場する「若木の桜」があります。
「敦盛最期」
一の谷の戦で、源氏の奇襲を受けた平氏は海へ逃れます。平氏の後を追っていた源氏の武将 熊谷直正は、浜辺で一人逃げ遅れた大将らしき兵士を取り押さえました。
直正が兵士の兜を取ると、自分の息子と同じ16、7歳の少年であること。また立派な身なりから高貴な身分であることが分かりました。
「あなたのお名前は何というのですか?」
直正が兵士に尋ねます。
すると兵士は自分の名を名乗らず、反対に直正の名を聞きました。
「私は大した身分ではありません。熊谷直正というものです」
直正が自分の身分を明かすと、兵士はこう答えます。
「あなたに名乗る必要はありません。私はあなたにとって十分な敵。私の首を大将に見せれば名前は分かるでしょう。早く討ってしまいなさい」
直正は若いながらも気丈にふるまう兵士の姿に心を打たれ、生きて逃すことも考えましたがすでに援軍が迫っています。
兵士の命を助けられないと悟った直正は、泣く泣く首を打ち取ります。
打ち取った首を持ち帰ろうとした時、直正は兵士が1本の笛を持っていることに気付きました。
兵士の首と笛を持ち帰った直正は、本陣である須磨寺の大師池で兵士の首を洗い、義経がその首が誰であるかを確認します。
義経は平清盛公の甥 敦盛公であると皆に知らせました。
さらに直正が義経らに持ち帰った笛を見せると、皆がその日の朝、敵の陣地から綺麗な笛の音が聞こえていたことを思い出します。
その綺麗な笛の音を奏でていた人こそ敦盛公。
彼は、戦で疲れた自陣の兵士たちの心を癒すため、笛を奏でていたのです。
この事実を知った源氏の兵士たちは涙したといわれています。
須磨の桜が「敦盛桜」と呼ばれる理由
それ以来、須磨寺では敦盛公の首塚を祀り、敦盛公の菩提寺になりました。
境内をはじめ須磨一帯に咲き誇る桜に、須磨の人々は儚くも美しく散った敦盛公の生きざまに重ね合わせ
「敦盛桜」と呼ぶようになったそうです。
大師餅本舗の「敦盛団子」
当店は、創業以来140年以上の間、須磨寺参りの皆様の道中のお愉しみとしてご愛顧いただいている和菓子店です。
人気の「敦盛団子」はその敦盛公にちなんで名づけたお団子。
ニッキ・プレーン・抹茶の風味を楽しんでいただける、甘さ控えめでお召し上がりやすい一品です。
須磨寺へお越しの際は、是非当店にお立ち寄りいただき、歴史物語にまつわるお菓子をお愉しみいただけると嬉しく思います。